曲突徙薪(きょくとつししん)第6号

気になるアイツ 〜清滝教授の一石〜

ここのところ、賃上げ関連の記事を追いかけることが多いのですが、そのなかで行き当たったページの一つが、内閣府の経済財政諮問会議の議事録でした。そして、議事録のなかでどうしても気になったのが、世界的経済学者がこれまでの日本の金融政策に向かって投じた大きな一石です。ニュースや新聞ではあまり話題にならなかったようですが、私はその一石にすっかり魅せられてしまいました。これ以上の金融緩和政策は、日本の経済成長にとってマイナスでしかないという、私が何となく抱いていた疑念を確信に変えたのが、今回紹介する「清滝教授の一石」です。

岸田政権が今月16日にも閣議決定する「経済財政運営と改革の基本方針2023」、いわゆる「骨太の方針」は原案がすでに公表されています。7日の経済財政諮問会議で明らかになった内容では、労働市場改革を通じた賃上げの促進、脱炭素投資(GX)、少子化対策の強化などが政策の柱に据えられています。

「骨太の方針」とは、毎年6月に閣議決定される経済・財政運営の基本指針のことです。財務省はこの基本方針のもとで、具体的な予算案を策定することになっています。この仕組みは、以前は大蔵省主導だった予算編成を内閣主導にあらためるべく、2001年にスタートしました。以降は首相が議長をつとめる「経済財政諮問会議」が議論をリードし、基本方針を取りまとめて内閣に答申する形に変わりました。当時の小泉政権下で、宮沢喜一財務大臣が会議での議論を「骨太」と表現したことから、いまでもこの言葉が使われます。

さて、経済財政諮問会議の議事録を見ていると、この会議が「骨太の」議論の場として引き続き存在感を有していることを実感させられます。5月15日の議事要旨では、有識者の一人として出席したプリンストン大学の清滝信宏教授が、会議の参加委員でもある植田和男日銀総裁を前にして、超低金利政策の問題点と早期解除論を鋭くぶつけている様子がはっきりと確認できます。

清滝教授は、経済に対するマイナスのショックが、地価や株価の下落、金融機関の融資活動の収縮を通じて長期的な負のスパイラルを引き起こすことを理論的に示した「清滝=ムーアモデル」で世界的に知られるマクロ経済学者です。2022年のノーベル経済学賞は、元FRB議長のベン・バーナンキ氏ほか3名が受賞しましたが、受賞の背景を説明する資料の中で清滝教授の論文が何度も参照されており、いまだ日本人受賞者のいないノーベル経済学賞に最も近い日本人研究者とも言われています。

経済財政諮問会議における清滝教授の発言は、大まかにまとめると以下のとおりです。

  • 過去10年にわたる量的・質的金融緩和政策には、デフレを止めることに一定の効果があった。一方で、量的・質的金融緩和政策には、長短金利差やリスクプレミアムが小さくなりすぎる副作用もあり、これによって、不動産価格が過剰に押し上げられるほか、新規企業の参入や若年層による住宅取得が妨げられ、長期的には経済全体の生産性の成長を押し下げることになる
  • したがってインフレ率が1~2%程度に定着すれば、量的・質的金融緩和は解除すべきである
    (筆者注:つまり、いますぐにでも解除すべき、と解釈できます)
  • 1%にも満たない金利でないと採算の取れないような投資をいくら増やしても、経済は成長しない
  • 過去30年間にわたって日本の労働生産性の伸び率は諸外国に劣後しており、バラッサ・サムエルソン効果によって、実質賃金や非貿易財の価格上昇率は諸外国よりも低迷し、日本は相対的に物価の安い国となった
  • 再びデフレに陥ることのないように、労働生産性の上昇率を諸外国並みに高める必要があり、そのためには量的・質的金融緩和のほか、無形資産の蓄積と技術革新が重要である

上記は議事要旨からポイントを取り出したものですが、議事要旨と説明資料のいずれにも言及のなかった、バラッサ・サムエルソン効果については簡単に補足しておきます。

バラッサ・サムエルソン効果は、たとえば米プリンストン大学が公開する経済学用語事典ともいうべき”The Princeton Encyclopedia of the World Economy”では、次のように説明されています(日本語訳はChatGPT、太字は筆者)。

経済学では、一般的には豊かな国は貧しい国よりも生活費が高い傾向にあるということが通説となっています。通常、これは実質為替レートで測定されます。実質為替レートは、名目為替レートを使用して、2つの国の消費者物価指数を共通の通貨に換算して比較します。この経験的な観察は、その測定に使用されるペン・ワールド・テーブル(Penn World Tables)データにちなんでペン効果とも呼ばれます。また、バラッサ・サミュエルソン効果とも呼ばれ、この観察を述べ、説明しようとした経済学者にちなんでいます。

もう少し単純に言えば、先進国は途上国よりも物価水準が高い、という経験的事実を理論的に解き明かしたのがバラッサ・サミュエルソン効果です。その背景にあるのが、貿易財(工業製品など)と非貿易財(サービスなど)の各経済主体における生産性の違いで、途上国において経済が大きく成長する際には、国際的な競争にさらされている貿易財の部門にて先に生産性がアップし、賃金が上昇します。貿易財部門での賃金上昇は、国内の労働市場の働きによって後から非貿易財部門の賃金に波及します。国全体の賃金が上昇すると、これは(生産性の低い国に対する)為替レートの上昇につながります。

清滝教授が指摘するのは上記のルートの逆で、日本では90年代初頭のバブル期をピークとして、貿易財分野の生産性向上が(諸外国に比べて)大きくスローダウンした結果、物価が相対的に低迷するデフレ経済が続いた、という解釈です。そして、長期に渡る生産性低迷の一因として、あまりに長く続きすぎた金融緩和政策を挙げています。

会議での発言に戻ると、教授の最終的な結論は「デフレは脱したのだから、生産性の成長を阻害する金融緩和は直ちにやめるべき」という、これまでの日銀の金融政策の180度転換を、当の総裁を目の前に真っ向から要求した内容になります。1%に満たない金利でないと採算の取れない投資を否定するくだりは、まさに超低金利やゼロゼロ融資でかろうじて支えられている「ゾンビ企業」には、これ以上の生産性の改善が見込めないという、日本経済の偽らざる現実をあらわしています。

実はこの問題については、地域金融機関の貸出先データの分析をしている私にも、少々思うところがあります。貸出先の財務分析においては、当該貸出先にとっての金利負担の大きさを測る財務指標として、有利子負債利子率(=支払利息割引料÷有利子負債残高)を用いることがあります。中小零細企業では、代表者からの借り入れのように市場金利とは必ずしも連動しない有利子負債も例外的に存在しますが、基本的に有利子負債利子率は、貸出先企業が金融機関から借り入れる際の金利水準をあらわします。

この有利子負債利子率の平均的な水準を地域ごとに比較すると、大変興味深いことに、同じ信用格付であっても、地域金融機関の地元よりも、東京や大阪といった都市部のほうが高いケースが見られるのです。

ここで、企業の財務分析や信用リスク評価に関わったことのある方なら、有利子負債利子率は当該企業の信用力と関係しており、都市部には相対的に信用力の劣る企業が多いのではないか、と考えられかもしれません。確かに有利子負債利子率は、当該企業の信用力の尺度として、伝統的な審査の場面や、信用格付の場面で広く参照されてきた財務指標です。しかしここでは、(あくまでも単独の銀行による勝手評価の結果ですが)同じ信用格付に区分される企業同士の比較にて、平均的な有利子負債利子率の水準に差があることを確認しています。

そこでもう一つの解釈として、同等の信用力の企業における有利子負債利子率とは、金利の本来の意味、つまり資金需要の強弱を示している可能性が考えられます。どれだけ金利が低かろうが、それをカバーできるような収益機会が見込めないのであれば、企業は決してお金を借りることはありません。都市部と地方との有利子負債利子率の差は、そのまま、都市部と地方の企業の資金需要の差、つまり収益機会の差をあらわしているのです。教授の指摘するとおり、「1%にも満たない金利でないと採算の取れない投資」には、生産性の向上や経済成長はなかなか期待できないのですが、投資の採算の悪さでいうと、都市部よりも地方は更に深刻な状況に置かれていることを、有利子負債利子率の現状から垣間見ることができます。

教授の発言に対する他の委員の意見は、議事要旨上は特に確認できませんでしたが、かたや世界的に名の知られた経済学者から初の日銀トップとなった植田総裁、清滝教授からの強烈な一石をどのように受け止めたのでしょうか。折しも、今週は15日と16日の2日間にわたって、日銀の金融政策決定会合が開催されます。市場では大きな政策変更を予想する声はほとんど聞かれませんが、清滝教授の投じた大きな一石、波紋がいつの日か日銀に届くのを待ちたいと思います。